素読と暗唱1
松下村塾の弟子たちが論語に代表される四書五経の素読を通して漢籍を学び、自分たちの志を強固なものにしていったことはまこと有名なことである。
言語の習得に一番の近道は素読であることに私も異論はない。
しかしながら、明治以降の偉人たちの残した書物を読んでいても、谷崎潤一郎氏にしても、湯川秀樹氏にしても「素読ほど面白くないものはなかった」と懐述している個所に出会う。
成績の良いと言われる人はその効果が出るのだが、その人たちでさえ、そういう感情を持つのだから、成績がとれない、苦手意識ある生徒に素読を強要したところで効果は出ない。
実際、素読を繰り返して実践させようとしても、継続してモチベーションを維持できなくなり、「面白くない」という感情だけに支配され始める。
では、如何にすれば良いか?
元々、素読というのは、意味を考えずに繰り返し、音読していくことで、意味がつかめるようになり、その文体のリズムが頭に入り、使えるレベルにまで昇華できることが期待できる学習方法であるから、素読とは言えないかもしれないが、まず、生徒に対してしなければならないことがある。
それが動機づけである。
例えば、英語の教科書の素読をする前に、私なら、一文、一文の和訳をしていく。その際に教科書的なポイントだけを話すのではなく、個別指導できる家庭教師なら尚更、その目の前にいる受講生の興味を惹く話題も含めて話すように意識したり、或いは自分の体験を交えた話題をその一文から想起できる内容を伝えることが大切である。
これが生徒への動機づけとなる。
そして、全体の文意が掴めれば、とにかく、繰り返し、素読していく。
徐々に読めなかった英文がつまらずに読めるようになってくれば、しめたものである。
当然、大きな声で先生の気持ちを伝えてやらないといけない。「ずこくいいよ。うまいよ。できるよ」
称賛の声は本人の自信となる。
だが、これだけでは、点数に結びつくわけではない。
また進めないといけない。それが「暗唱」という記憶だが、この続きは明日、書くことにしよう。